親の見守り
80代半ばの母親の見守りを始めて一年。介護ではない。介護にならない為の日々のサポートを続けている。
80代半ばでも自力で歩行出来て、生活全般の運営をやってくれている体力と経済力には本当に感謝。
数年前に父親が散歩中に転倒→骨折→入院→リハビリ施設→老人病院で最期を迎えた。結局転倒して骨折してから家での生活が出来ないまま旅立った。本人も可哀想だったが、病院や施設を移動させる度に打ちのめされる切なさが自分は一番辛かった。とはいえ、母親独りで自宅介護させるのは現実的には不可能で、当時の決断は妥当だったと皆納得はしている。介護施設ではスタッフも献身的にお世話してくれるが、やはり自由度の少ない暮らしの中では心のエネルギーが減っていくのが明らかだった。刺激のない環境では脳はどんどんやる気を失う。
この経験は、これからの母親の生活において、極力施設や病院でお世話なる時間を減らすには(出来れば無しで)どうしたらいいのかという事を強く考えさせた。幸いにして、薬を飲んでいるわけでもなく超健康体。
一昨年の冬に買い物に出かけて、急に歩けなくなり近くの親切な方々がなんとかマンションまで送り届けてくれた。ステイホーム続きで固まってた筋肉が寒さで悲鳴を上げた結果かと思う。ラッキーにもその後は普通に歩けるようになった。冬の間だけは、やはり買い物の手伝いがないと厳しい状況であることが明らかになった。
サポートを始めた当初は、適当に必要そうな物を勝手に買っていく方法をとったが、やがてそれでは母親が頭を使わず早晩駄目になる事に気付き、とにかく買って貰いたい物を本人からリクエストさせる様にした。そうするとかなり細かく計画的に頼むようになり、こちらも無駄な物を買ってストレスを溜めことも無くなった。年老いたとはいえ、自分の食べたい物くらいはちゃんと自分の意志を尊重する事が大切なんだと最近気付いた。なんでも勝手に決めてやってあげているというスタンスでは見守りは上手くいかいない。いくつになってもちゃんと自分の頭で考える事が、最後まで生活の質を落とさない為の秘訣ということ。ちゃんと肝に銘じておこう。
健康診断
トンガ沖の海底火山噴火の影響が世界中に広がっている。この2年のコロナ禍でも、世界は一つ、しっかりと繋がっている、と今更ながら思い知らされた。今回の噴火ではその影響の原因を「空振」という言葉で説明されている。空気中を伝わる空気振動のことらしい。
今日は年に一度の健康診断。毎年感じるのは、二回の検便を取るのがやっぱり面倒くさい。最近のウオシュレットは使用後数秒で自動洗浄されてしまうので、まずはその設定を変えるところから。それでも、二回取り終えると気分的には健診の半分は終わった感じで気が楽になる。
いざ健診クリニックへ。コロナ禍で人数制限しているせいか、予約がいっぱいという割にはそんなに人はいない。スタッフの方々はマスク、メガネ、フェイスシールド3点セットで完全防備で対応してくれる。さぞ苦しいことだろう。全身検査服に着替えて検査場へ移動。皆静かにテレビを見ている。それにしても沢山のスタッフが働いている。検査技師や採血する看護師さんより圧倒的に個人フォルダーを運び続けるスタッフが多く驚く。しかも寒いのに、皆さんワンピースの制服に脚はストッキングでさぞ冷えるだろう。
超音波の検査では、膵臓のところで何度も何度も同じ場所をチェックされる。「多分あれだなぁ」と数年前の超音波検査でも指摘された嚢胞を思い出す。別の技師さんにも診てもらいますと、呼びに行ってくれた。
視力検査では、両眼ともよく見えて1.5の結果。この数年、視力が低下していたが最近は老眼鏡をちゃんと使い始めたのがよかったのか視力が戻った。何はともあれスッキリ見えるのは気分よし。
最後の医師との問診は、「コロナ感染予防のため滞在時間を短縮する目的で血液検査や尿検査の結果はなしで直ぐに問診を受けてお帰り頂けますが」との対応。まぁいいかと思い、その通り医師との問診へ。やはり超音波での膵臓の嚢胞12ミリを指摘される。「すでに数年前にも別の検査機関で指摘されていたが、去年こちらの機関での検査では何も言われなかったのでなくなったのかと思ってました」と言うと「去年の技師が見落としてたんですね」とあっさり。それでどう対処したらいいのか聞くも、特に病院を紹介してくれるサービスがあるわけでもないとのこと。なんだかスッキリしない健康診断だったな。まぁ元気だからいいけど。
雪
お正月が終わると、スーパーの入口はすでにバレンタインのチョコ売り場に。大雪だろうがオミクロンだろうがカレンダーに沿って着々と進めていかなければ商売は成り立たないのだろう。色々言い訳にして、先に進ままない人は見習うべきかもしれない。前向きというのは、とにかく物事を片付けていく事だもね。
それにしても、今年の雪の量はどうしたものか。夜中は除雪車で雪掻きをしてくれている札幌の街中でさえ、歩道と車道の間の壁がどんどん高くなってて老人や子供が歩くのさえ危険。もうこれ以上降ると雪の置き場はないのが実態。
数日前に目にしたヤフーニュース。10年程前に東北からセブ島に移住した御夫婦の話が出ていた。秋田県に住んでいた60代の御夫婦は、冬の毎日の雪掻きに限界を感じ、左手首を骨折したのを機に移住を決め年金で新生活を楽しんでしんいるという。実際に移住した他の人たちも長年悩まされた、痔、高血圧、関節痛から解放されてとても健康的になったとも。体は正直。
過疎の進む北国で、老人だけで雪掻きをして冬の生活を維持するのは実際とても危険。それでも国を超えての移住はかなりの決意がいるだろう。せめて同じ北国でもマンション生活への移行などを身体が動くうちに実行するのは大切だと、この冬は強く感じる。
ビートルズとインド
二夜連続のBS世界のドキュメンタリー2021年イギリス製作の「ビートルズとインド」見応えがあった。ヨガ好きなら一度はハマるビートルズとインドの蜜月と訣別のお話し。
証言者達が皆飄々としていて面白いのはさすがインド絡み。
「前編 出会い」はBidduの曲にのって次々と現れるインド人達の幸せそうな踊りと、若い日のビートルズ映像が交錯しながら始まる。一転1942年のイギリス・リバプールの空襲。
ジョージハリソンの近隣住民の証言によると、ジョージの家からはいつも不思議な音楽が流れていたそう。ジョージはお母さんのお腹の中にいる時から、その不思議な音を聞いていたと。
出会うべくして、ジョージはラヴィシャンカールと出会いシタールを学ぶ。ラヴィから「ヒンドゥー教徒にとってグルの祝福はかけがいのないもの」というインド人の精神性を学び、マハリシとの出会いに繋がる。
「後編 蜜月と訣別」では、リシュケシュでのビートルズの生活が描かれている。
1968年遂にリシュケシュのマハリシの瞑想施設にビートルズがやってくる。なんとしてもスクープをものにしたいジャーナリストは、弟子になって中に潜入する。中に入る時の合言葉は「ジャイブデブ」なんだか、のどかで可愛い世界。太陽を浴びる4人が気持ち良さそうな映像が印象的。10日後、リンゴスターが去り、5週間後ポールも去る。
元々「人には利用されたくない」ビートルズがマハリシの動きに少しずつ不信感を持ち始めて、遂には決裂。
しかし決裂というのが必ずしも終わりではないというのが、インドと出会った人達の強み。
後世彼らが語った言葉とともに番組は終わる
「僕の人生でとりわけ幸福だったのはインドで過ごした時間だ」
「この上なく純粋ですべてバランスがとれていた。人生はすべてスピリチュアルな体験だ」
「我々は肉体だけの存在ではない、肉体をまとった精神なのだ」
レポーターに「インドはどうでしたか?」と問われ
「最悪、旅は楽しかったけどね」
とてもよくわかる。
識名園
大雪が日本列島を覆っているが、オミクロンの勢いも止まらず、極力外出を控えるのが今の自分に出来ることなんだろう。つい半月前の年末の優雅な空気が、とても昔の様に感じられる。
沖縄の暖かな空気を思い出しながら旅の記録を綴る。
12/30(木)
ホテルからまたスマホの地図を頼りに識名園を目指す。途中お墓に迷い混んでしまった。沖縄のお墓はとても大きな作り。
識名園は琉球王家最大別邸とのこと。御殿に入りかけた時に運良くガイドの方が説明をしてくれることに。
●王族の保養や冊封のために訪れた外国使臣の接待用に使われた。
●造園は池の周りを歩きながら景色移り変わりを楽しむ「廻遊式庭園」
●御殿の赤瓦屋根は当時は上流階級のみに許された
●池に浮かぶ島にある六角堂やそこへ繋がるアーチ橋は中国風のデザイン
●大戦で壊滅的な破壊を受けたが20年の歳月をかけて整備され、2000年には世界遺産に登録された
沖縄県立博物館
はやくも1月も中旬突入とはびっくり。
今日は大阪の感染者数1700人の見通しとの速報。第六波ともなると、あまりこういう数字に驚かなくなっている自分が少々怖い。週末のインドからのzoomヨガでは、クラスにもオミクロン感染中の生徒もいて、先生が何度も「オミクロンに対して自信過剰になってはいけない、くれぐれも皆んなで協力して大人しくしておくように」と念押ししていた。自身も感染し、身近な人たちを亡くした教訓からの言葉は重たい。最近は自分は大丈夫との過信が確かにある。気をつけよう。
旅行中はブログ記入をあえて中断していたが、旅行があけてもなんだか遠のいてしまった。でも記録することは思考の歪みに気付くきっかけになるので、今年も続けていこう。
だいぶ忘れてしまったけど、旅の記録。
12/28(火)
ホテルから歩いて沖縄県立博物館へ。那覇市内は歩くのが好きな人なら、殆どどこでも歩いて行くことが出来る。
首里城入場券の半券を提示すると少し割引に。お気に入りの「ON THE TRIP」にガイドされながら展示を見る。これは本当に便利だ。
●日本唯一の飛べない野鳥「ヤンバルクイナ剥製」から始まる。やんばるの森に天敵となる肉食動物がいなかったので、逃げる必要がなく翼が退化したそう。
●次は2万年前沖縄にすんでいた港川人の復元模型。成人男性で推定身長は153センチ。
●先日の首里城で学んだ「万国津梁」の文字が刻まれた鐘。沖縄戦の激戦地首里城にありながらも戦火をくぐり抜けた貴重な文化財。
●アジアの中で一番多く中国に通ったと言われる進貢船には、縁起を担ぐ数々の工夫が施されている。琉球からは馬や硫黄を運んだそう。
●軽便鉄道の模型 1914年〜1945年までの30年間沖縄を走ってた軽便鉄道。人の移動や物流ルートとして使われたが、戦争で壊滅して復旧はなかったという。
●人が亡くなったときに棺を載せる赤い御輿のような龕(がん)
●琉球王国の国王自ら書いた「致和」の文字がある扁額。これを単なる木の板と勘違いした米軍兵士がトイレに使おうとしたとの説明。
収容所暮らしから戻ってまだ生活がままならない中こうした文化財を守り続けた沖縄の人々の努力に驚くばかり。
盛りだくさんで、一度に全てを見ることは出来なかったが、ガイドに助けられて理解が進んだ。
平和学習を受ける
沖縄に一月末までまん延防止措置が適用された。東京922人の新規感染確認との速報。
新年から悪夢再び流れだが、しっかり感染対策して気分は落とさない様に気をつけよう。
旅の記録の続き
12/26(日)
なんといっても今回の旅のクライマックス。
牧志から路線バスに乗り糸満バスターミナルで乗り換えて「沖縄県平和祈念資料館」へ。
事前に月に一度の「平和学習」受講を申し込んでおいた。一時間弱の講話を聞いて、講師の方が一緒に展示を解説しながら案内してくれる。参加者が少なかったので、質問も出来てとても良い機会に恵まれた。
キーワードは「次世代への継承」とのこと。第3世代である40、50代の日本人が実は沖縄戦につい殆ど知らない、という現実。確かに自分自身を考えるとその通り。実際、あまりにも悲惨な沖縄戦の話を当事者達もしたがらず、沖縄の人々の間でも積極的に沖縄戦について語り合う機会は今でもとても少ないそう。
展示室の構成は
第一展示室 沖縄戦への道 (琉球処分、皇民化政策、近代化を急ぐ日本の近隣諸国への侵出)
第二展示室 住民の見た沖縄戦 鉄の暴風(壕などから発見された医療器具など)
第三展示室 住民の見た沖縄戦 地獄の戦場(ガマの中に避難している住民の様子)
第四展示室 住民の見た沖縄戦 証言(物的資料が非常に少ない中での貴重な体験者の証言)
第五展示室 太平洋の要石(戦後の収容所生活、27年間の米軍統治、復帰運動)
正直、殆ど知らなかったことばかり。とても上手にわかりやすく展示されているので、アクセスが不便ではあるが是非沢山の人に訪れて知ってもらいたい。
収容所生活とか、全く考えたこともなかった。
ベトナム戦争へもこの地から米軍が飛び立っていたとか、全く想像していなかった。
そしてニュースで見る基地問題は現在の我々の問題だという認識もなさ過ぎた。
知る努力をすることの大切さを再認識した1日。
時々思い出せるように展示の結びのことばを書いておく。
沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というものは
これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない
と思うのです
このなまなましい体験の前ではいかなる人でも
戦争を肯定し美化することは できないはずです
戦争をおこすのは たしかに 人間です
しかし それ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私たち 人間 ではないでしょうか
戦後このかた 私たちは
あらゆる戦争を憎み
平和な島を建設せねば とおもいつづけてきました
これが
あまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない
私たちの信条なのです
2022年は沖縄の本土復帰からちょうど50年。
今年はもっと多方面で沖縄を取り上げて、日本人の理解が少しでも深まる年になりますように、祈らずにはいられない。